トゥレット・サロン
トゥレット・サロンとは
チック症・トウレット症を抱える方やご家族、友人、支援者、他障害に理解のある方でしたらどなたでもご利用できます。
皆さんが気楽に集える場所です。
当事者の常駐スタッフがおります。ピアサポートスピリッツにあふれる方々ですので気軽に話しかけてください。
目的
トゥレットサロンは、トゥレット症のある方の社会・経済活動への参加を促進すると共に、気軽にくつろぎ集う場であり多様性を受け入れる場であります。
トゥレット症のある方の支援及び福祉の増進を図ることを目的としています。
トゥレット・サロンの特徴
お話をしたり聴いたり、気持ちを共有できる場所です。将棋やオセロ、ボードゲームでみんなとワイワイリラックスしてご参加ください。途中入室や退出可能です。
差し入れも大歓迎です!
サロンは、12時~16時まで(16時完全撤収)です。
ご要望に応じて150インチの大画面で映画鑑賞会も実施!
映画館の臨場感を味わう事が出来ますので、ご相談ください。
事業について
[名称] トゥレット・サロン
[住所] 〒271-0092 千葉県松戸市松戸2282-18
(一般社団法人ハッピーチョイス、旧小松宅・子ども100当番のプレートが貼ってあります)
JR松戸駅、新京成松戸駅東口徒歩15分
[電話] 090-3408-6947
[メール] ts.salonmatsudo@gmail.com
[運営者] 小松賢二
一般社団法人 happy choice 顧問兼支援員
[開催日] 年4回 6月、9月、12月、3月の第二土曜日 (12:00~16:00)
[参加費] 500円 飲み物、お菓子等はご持参下さい
お気軽にご連絡ください
トゥレット症と生きて、そして今…
トゥレット症って知っていますか?では、チック症はご存知でしょうか?トゥレット症はほとんどの方が知りません。チック症は聞いた事がある方がチラホラいます。
では、どう違うのでしょう?
運動チック(首を動かしたり手足や体の部位を動かしたりしてしまう症状)
音声チック(あー!とか、うっ!とかその他声をだしてしまう症状)
その二つのチックが複合して、一年以上慢性化してしまう症状の事を「トゥレット症」と言います。これは、脳の大脳基底核の伝達機能のトラブルと言われています。親の育て方が原因ではありません。もちろん、わざとやっている訳ではありません。
現在55歳である私は、振り返ること45年前の10歳の時チック症の症状が出始めました。小学校1年生の頃は、スポーツも出来、学級委員長も務めるクラスの中心にいました。
症状が出初めてからは生活が一変しました。
「なんか首を動かさないといられない」チックの特徴というのは勝手に動くということもありますが、動かさざるを得ない、例えば、くしゃみを我慢するのはつらいですが、「クッシャン!」と出すと気持ちがスッキリするという感覚があります。
そうゆう感覚からはじまり、わずか5か月ほどで今度は、「あっ、あっ」という音声が出始めました。そして次第に全身動かすようになってきました。
当時は「トゥレット症」ということが知られていなかった時代で、どの医師も「トゥレット」という名前すら知りませんでした。医師からは「チック症」と診断されました。
当時、チック症状になることは、親の育て方が原因とか、精神的なものであると言われていました。そのような考え方で、薬の処方に関しても医師が「これかな?」みたいな感じで、はっきりとわからず出されていました。
小学4年生の時、チック症として生活が始まり、学校に行くとやはり他の人とは違う動きをするのでいじめの対象になりました。昨日の友が今日の敵と言ったらいいのでしょうか?学校に行くと「学校に来るな!」とかバイ菌扱いされ、近くに行くとワ~と言われ避けられたり、ひどいときは「お前なんか学校にくるな!」と石を投げられ額にあたり、気がついたら血がたらたら出ていたりということもありました。さすがに学校に行くことができなくなり小学5年生の時、不登校になりました。
チック症で通院していた国立国府台病院精神神経科には院内学級があり、そこは少しの時間でも行くと出席扱いにしてくれるので、何とか出席日数を確保し6年生になることができました。
6年生で学校に戻った時、担任は若い男性の先生でした。先生は、私のことを皆と同じように接してくれました。私達トゥレット症を持っている人は、一番ありがたいのは、「何事も無いかのように対等に同じように接してくれる」事です。私たちの中では「暖かい無視」と呼んでいます。
逆に「大丈夫?平気?どうしたの?」とか言われることがつらいときがあります。声が出ても何もなかったようにサラッと流して接してくれる方がありがたいです。そして、その担任の先生はそのように接してくれ、私は小学校を何とか卒業することができました。
中学は、父親の仕事の転勤の関係で仙台へ行くことになりました。新天地で頑張ろうと思いましたが、入学後まもなくいじめが始まり、バイ菌扱いや中学になると無視がはじまり、また学校へ行けない状態になりました。
その時、担任の先生は女性で足が不自由で障害を持っていました。しかしとてもパワフルな先生で、不登校の私の家へ毎日訪問してくれました。
しかし、どうしても学校に行くことができません。自分の体が勝手に動いてしまう、声が出てしまう、自分で自分の体をコントロールすることができない、そのことによっていじめにあうこと…。悩んで悩んで生きているのが嫌になり、薬を飲んで自殺を試みました。
幸い薬の量が少なかったため目が覚めました。その時「生きていてよかった」と心から思い、涙があふれてきました。本当に怖かったです。その後も、辛く死のうと思ったことは何度かありましたが、自殺を試みる事はありませんでした。生きていれば、きっと良いこともあると信じて。
中学2年生の時、一人のお巡りさんがピンポンと自宅に訪問してきました。巡回連絡といい、この家は誰が住んでいるか調査をしに来たのです。私が出ると「どうしてこの時間に家にいるの?学校は?」聞いてきました。私は学校に行っていない理由を話しました。
普通のお巡りさんだったら、気をつけて過ごしなさいよ、と言って終わってしまうところですが、そのお巡りさんは、「ちょっと上がっていい?」と言って家の中で話をじっくり聞いてくれました。
私は自分の障害のこと、そのことでいじめにあい不登校になっていることを話しました。お巡りさんは「そうか、そうか大変だな」と一時間以上も話しを聞いてくれました。そして「自分は3日にいっぺんそこの交番に勤務していて、次は3日後にいるからいつでも相談にきなさい」と言ってくれました。
私は3日後に交番に行ってみました。そしたら「良く来たな」とお茶を出して迎いいれてくれました。その時、そのお巡りさんは自分がこの時間預かっているからと、学校と私の親に連絡をいれてくれました。お昼になり食事を一緒に行こうということになりました。私は「お金を持って来てないです」と言うと「そんな事は心配しなくていいから」と小さな食堂に連れて行ってくれ、お腹いっぱい食事をごちそうしてくれました。嬉し涙でご飯がしょっぱかったのを覚えています。そのお巡りさんは退職をして小学校の用務員をしていますが、現在もつながりがあり尊敬する存在です。
そして、中学3年生になり、ある一言が私の転機となりました。
私は今まで相手に「このような障害をわかってくれ、自分のことを理解してくれ」と訴えばかり言っていました。その時担任だった先生は「小松くん君は相手にわかってくれ、理解してくれというけど、小松くんが相手に何か与えたことはある?」と言われ、その言葉が胸に突き刺さりました。
「自分は何も努力しないで相手にわかってもらおうとばかりしていた、自分も相手に何かしなくてはいけない」と思いました。
同級生のまじめな友達が放課後毎日黒板を雑巾でピカピカに拭いていました。そこで私もその友達と毎日黒板を磨くことにしました。2ヶ月たち、3ヶ月たちそのころから仲の良い友達が出来ました。
「小松!この曲聞いてみなよ!」と「ビリージョエルのストレンジャー」のカセットをくれました。嬉しかったです。少しずつ少しずつ友達ができてきました。
私は、自分の前向きな姿勢が相手に伝わるのかな?と思いました。もしかしたら、先生が黒板掃除のことを皆に伝えてくれていたのかもしれません。少しずつ頑張れる自分になっていきました。
次の試練は高校受験です。私は、同じ学校を3回落ちています。チックが原因と思われます。推薦で落とされて、一般で落とされて、二次で落とされました。
推薦発表の日、皆は学校で「おめでとう!」と言われています。不合格だった私が先生のところに行くと、先生は苦虫を噛み潰した表情で無言です。私は「先生、チックが原因なんですね」と聞くと、先生は「高校側にきちんと障害のことを伝える」といってくれました。その日は悲しくて、悔しくて、どういう風に家に帰ったか覚えていません。
家に着くと母から「どうだった?」と聞かれました。私は「後で話すね」と言い自分の部屋に入ってタオルを口に詰め込んで泣き声がきこえないように、大声で泣いたのを覚えています。とても辛かったです。
推薦受験不合格の次は、一般受験でも不合格、二次でも不合格でした。
中学校の先生方から高校側に説明してもらい、二次不合格の2週間後、高校の校長室に呼ばれて合格通知をもらいました。その時、その高校の副校長から「校長先生から合格通知がもらえるなんて光栄なことだよ」と言われました。しかし、合格通知を手にした私は、嬉しさではなく、悔しさでいっぱいでした。
「何があっても絶対にこの学校を卒業してやろう」と心の中で思いました。
高校に入ってからもいじめは続きました。椅子に画びょうが置いてあったり、引っ叩かれたり、蹴られたりのいじめはありましたが、歯を食いしばって学校に通っていました。
私は、自分がこのような症状を持っているからこそ、同じ障害を持っている人や高齢者のお世話をする仕事がしたいと思い、東北福祉大学入学を目指しました。
大学受験では、福祉大学ですので障害の有無での差別がありません。しかし現在のような障害者への合理的配慮とかは無く、入試は一般と同じ条件でした。私はチックで声が出てしまうことや、動いてしまうことがあり、同じ受験生に「なんだよ」とにらまれても我慢して気合で入試を乗り切りました。
無事に合格し、大学生活が始まります。
大学の授業でも声が出てしまい「うるさい!出ていけ!」というように、他の学生から言われることもあり、教室を退室せざるを得ない時もありました。福祉大といえどもそのようなことはありました。
しかし友達が試験の時などは、四方八方固めてくれ、私がチックが出ても他の学生から苦情が出ないようにしてくれるなどして受けることもありました。その時の友達には感謝してもしきれません。
チック症やトゥレット症を持っていると、他人から睨まれたり、怒鳴られたり、ある事無い事嘘を言いふらされたり、陰口を叩かれたり、と敵が多いです。
しかし、友達、仲間、助けてくれる人がいっぱいます。味方も沢山いると思います。周りを見たときに、もしかしたら近所のおじいちゃんやおばあちゃんかもしれません、隣のお兄さんお姉さんがどこかで見守ってくれているかも知れません。必ず応援してくれている人はいます。
私は現在55歳です。10歳からトゥレット症が発症し45年間トゥレット症と共に生きてきました。トゥレット症と共に生きている自分が存在する、これが全てだと思っていただけたらと思います。
今私は、千葉県の障害者施設で顧問兼支援員として働いています。また、社会活動としては、警察署協議会の委員を経て任期満了で退任、現在は千葉県交通指導員、松戸市防犯協会防犯指導員をしています。そして小学校の学校評議員の活動もさせていただいています。
警察のお手伝いは、中学校の時に自分を救ってくれた警察官への恩返し、小学校の評議員は今まで私を救ってくれた担任の先生方への恩返しです。
学生のころ担任の先生に言われた言葉、「小松くん君は相手にわかってくれ、理解してくれというけど、小松くんが相手に何か与えたことはある?」
今でも私の心に残っています。
今は亡き母親にとんでもないことを言ったことがあります。「どうして自分を産んだんだ」と。そのことが今も一番悔やまれることです。
この輝かしい素敵な世界に産み落としてくれたことに、今私は母と父に本当に感謝しています。
もし、トゥレット症を持ったお子さんに同じようなことを言われたことがあったら、本心ではないと思ってください。自分が辛いからそのように言っているのです。本当は感謝しているのです。また時期がくれば必ず感謝します。
最後にトゥレット症を持っている人に伝えたいです。
一人で抱え込んではダメです。これからも苦しみ、悲しみにぶち当たることがあると思います。もしそのようなことがあったら、私のような経験をした人がいたのだと、少しでも思っていただけたらと思います。
トゥレット症という障害は、まだ社会では知られていません。
だからこそ、多くの人にこの障害を知ってもらいトゥレット症を持っている人が、突然声を出しても、突然体を動かしても、何事も無いかのように対等に同じように接して欲しいのです。
「暖かい無視」をしてください。
辛いことはありますが、絶対に未来はあります。そして辛いときは辛いと言ってください。
今がある…、それに続く未来は必ずあります…